2018.4.10 朝

学校が始まり早くも一週間が経過しようとしています。今学期の自分の目標は、徹底的に自分の時間を管理して、勉強の時間を作ることと、隙間時間を利用して多くの本を読むということです。また生活リズムが乱れる傾向に私はあるので、しっかりと自己管理をして健康的な生活を送れるようにして行こうと思います。

昨日は友人と学校の昼休みに、学校の国際部が開催するグローバルランチというものに行ってきた。今回が初めてということではなく、個人的には昨日が3回目である。異国の文化を持っている人たちと言葉を交わすことは日常生活を普通にいきているだけではなかなか得ることができない貴重な体験なので、とても楽しいものです。

昨日は月曜日だったわけですが、私は月曜日は塾で国語を小学生と中学生に教えています。教えるといっても1から10までを手取り足取り教えることはしません。彼らに伝えるのはせいぜい2くらいです。彼らが自らの力で気付くのを待ちますし、焦らせるようなことは何があってしません。私が務める塾が行う教育はそういうものです。それでもまだ子どもたちが答えにたどり着けないいとなると、もう答えを言ってしまいます。大切なのはそのワークの答えではないのです。ひとたび社会に出てしまえばそこは結果主義。過程などが重視されることは少ないです。頑張りましただけでは誰の評価も得ることができない環境の中で必死に自らの身を削りながら働いている人もいます。しかし、小学生や中学生はその限りではありません。論理的な思考を養ったり、判断力や想像力を身につける機会が彼らには均等に与えられています。別にそのワークの答えが合うことが偉いのではありません。もっと奥にある大きな目標を達するための踏み台にすぎないのです。私は私の働く塾のそういった学習理念が非常に好みです。

そして本日4月10日は算数と数学の日です。私の苦手教科です。誤解されたくないのですが、私は算数と数学が頗る苦手なのはそうなのですが、嫌いではありません。むしろ好きです。いわゆる下手の横好きというやつです。何の気なしにリビングでテレビをつけたときに、クイズ番組がかかり、問題が出題される。それをなんのきなしに解いてみてわからなかったらモヤモヤする。解答が解説されて納得する。そんな感覚に近いです。ちなみに数学より算数が苦手です。小学生と一緒になって問題に踊らされることも時にはあります。そんな人間が塾の講師をしていて大丈夫なのだろうかと自分でも思うことがありますが、いいんだと思います。子どもと同じ目線に立ちながら、ああでもないこうでもないとい云々かんぬんする時間が全くの無駄とは思えないのです。子どもとの距離感の取り方にさえ気を遣っていれば、子どもは私に算数を教えようとしてきます。素晴らしいことです。人に教えることには深い理解が必要です。それを自然と引き出してあげることができたということです。その瞬間に私は思います。算数が、数学がわからなくてよかったなと。しかし、子どもにこの大学生は無能だと思われてしまうことは避けないといけない。この大学生は少し困っているのかもしれない、私の力なら助けてあげられるかもしれないと思わせることが必要です。それを可能にするのが子どもとの適切な距離感の取り方と、少しの演技力。そいうものを私は今の塾で学びました。

 

2018.4.9 ブログ開設 初投稿

人生で初めて自分のブログを持つことを決意しました。日々変わる自分の気持ちや、成し遂げて生きたいことを自分の中で再確認する場所として活用できればいいなと個人的に思っている。私は関西在住の21歳の大学生だが、高校時代に大学を現役で合格することができずに1年間の自宅浪人を経験して、今は無事大学に通っている。周りは皆一つ年下の学生だが、学校にいる間は特別にそれを意識しながら過ごすことはない。

私の生い立ちや、なぜブログを始めようと思ったかはまたいつか気が向いたらここに投稿して、自分自身の整理や客観的に自分を見つめることに利用すればいいと思っています。

今日は大学の友人と私の地元で会いました。何をしているかというと将来自分たちで形にしていきたいと考えている事業についての構想を練っています。それというのも自分たちで保育所を経営したいというものです。

私は中学生の頃に、学校の先生になることが夢でした。そのまま高校生になり大学受験を迎え、一つずれて入学が決まってからもその夢は潰えませんでした。しかし大学で教員免許を取得するための講義を受講して、単位を取るたびに思いました。なぜこんなにもワクワクしないのだろうかと。自身の興味関心を体現しているはずのその授業は。あまりに淡白で、あまりにも退屈でした。そしてそれに加えて実感されていったのが、自分が見ていた教員の仕事はほんの一部でしかなく、本来の学校の先生が担う仕事の辛さと、葛藤がそこには存在していたということでした。教職課程を履修する者の多くは途中で履修を諦めますが、私もその多数の一員でした。私は中学生の頃から思い描いていた自分の夢から脱線したような気分でした。また一から自分に向き合いながらやりたいこと、なりたい自分を探す旅が始まるのかと思いながら月日は流れ、私は大学の半分をもう終了していました。

学生の多くは大学に入学した後はアルバイトをします。私もその例外ではありません。私は地元の最寄り駅近くで高校3年生を教える塾講師のアルバイトを1年生の頃から継続して行っていました。そして教員への道を諦めた私でしたが、子どもたちと関わり合いながら、彼らの成長を近くで感じ取ることができる職業への憧れはぬぐい切れなかったようです。これまでの高3生だけではなく、もっと幅広い年齢層の子どもたちと触れ合いたいと意識するようになりました。そして新たにもう一つ塾を掛け持つという選択をしました。今思うとこの選択は私の人生に大きな影響を及ぼすものでした。

その新たにスタートした塾で展開されている授業や空間は、私が予想だにしないものでした。そこでの痛烈な経験から私は児童教育、さらには幼児教育の重要性について深く考えるようになりました。

全ての選択は偶然ではなく、過去の自分が現在の自分に対して半ば強制力を持ちながら迫ったものであると私は考えています。AをするかBをするか。ここでAを選ぶ人は、過去の自分の何かしらの要素によってAを選ばされているということです。

 

今日は保育所を運営するための初期投資にかかる金額を算出したり、教育理念を共有しながら、展開したい教育の形を友人と確認することができました。何も知らない無知な普通の学生が踏み込んでいい分野なのかもわからないし、周りの地元の親しい友人らは一つ上の学年なので就職活動真っ盛りです。しかし私には普通の仕事をしながらでは当たり前の暮らしを当たり前に営むことができる時代はしばらく前に終わりを迎えているような気がします。子どもひとりを養うのにかかる平均的な金額は3000万円です。夢のマイホームとマイカーのローンをそこに加えて、さらには日々の生活費や様々な出費を計上すると、普通の働き方がどこまで通用するのだろうかと疑問を感じてしまいます。

 

この1年間は私にとって人生のターニングポイントになるような気がしています。一日一日の自分がここに顔を出し、心情を表出する。そこから自分を鑑みてみたいと思います。 誤字等は気にせず思うがままに書き出すことを意識していきたく思います。